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生きる意味。

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自分が死んだ場合に消滅するのは自分の世界だけであって、他人に己の世界とその中の価値観を押し付けようとするが故に誰も悲しんでくれないだとか必要とされていないと思ってしまうのだろう。
まず自身が自分の世界に生きて無くて「こうしたい」よりも「こうすべき」や「こうしなければいけない」という他人の世界に縛られた状態であるから、失敗すると周囲から否定されているような気がしてしまい、期待に応えられなかった自分を殺したくもなるのだろう。

自己を肯定できないから他人に必要とされることで生きている意味を見出そうとしていたが、結局それは自分から逃げているだけなのだ。
これまで逃げ続けてきた自分の人生の責任を、自分で背負い直すことで自己肯定を生み出せるのであろう。

追い求めるべきなのは生きる意味ではなくて生き甲斐だという言葉が正しいように思う。

自分が生きていること自体には何の意味も無いのだから探しても見つからないのは当然であって、無いから死ぬというのは見当違いの誤った判断である。

魂は常に生きたいと望んでいるのだから、生き甲斐という餌を与えて元気にさせてやる必要があるんじゃないかと思う。

無意味。

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自分という人間の存在する意味が分からない。

私の価値とは?

どこで得られるものなのだろうか・・・。

心でもいいよね?

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信頼できない橋を渡る者はいない。

橋は孤独だった。

流れる川を見つめながら、誰かが安心して渡ってくれる未来を夢見た。

ある日、一匹の動物が川岸に現れた。

17年かけて築いた礎を最初に渡ったのは動物だった。

橋は動物が小さく見えたから、自信満々に己の体で受け止めた。

「丈夫で、安心できるよい橋だ。」とその動物は言った。

橋は嬉しかった。

それからというもの、動物は毎日のように橋を渡りに川岸へやって来た。

橋は孤独ではなかった。

時には朝から晩まで橋の上で話すこともあった。

橋は自分の上から見える遥かな景色を、喜んで動物に教えた。

小さく見えた動物は、実は橋よりもずっと長生きで、橋よりもずっと多くのものを見ていた。

橋は動物への思いが強くなるにつれ、支える重さが増している事に気付かないふりをした。

動物が楽しそうに渡るのを見て、ひとりふたりと渡る者が現れた。

増えるにつれ、そこに架かる橋の便利さに皆が気付いた。

「大きな橋になってたくさんの人を渡そう。」

橋はそう考えた。

だから拒まなかった。

橋は渡る人々から話を聞き、動物に語って聞かせる知識が欲しかったのだ。

人々は次第に自分が快適に渡るための様々な要求を橋に出してきた。

橋は求められるままに自分を削り、磨くのに精一杯だった。

いつしか安心できる存在になりたいと願った自分すらも忘れていた。

人々に踏まれそうになりながら渡る動物を気にかけている暇も無かった。

橋は苦しかった。

理想よりも役目を選び、橋は道具になった。

その瞬間、橋は人々の重さに耐えられず、崩れて川に流された。

人々は悪態をつき、もう誰も川には近付かなくなった。

礎だけになった橋は、また孤独になったと思った。

だが数日後、人々と一緒に川へ落ちて流された動物が戻ってきた。

それからも動物は毎日、川岸に現れた。

川の中に残った礎を水に濡れながら必死で渡った。

橋は情けなかった。

嵐で川が増水した日も、日照りで川が枯れた日も、動物は渡りにきた。

橋は苦しかった。

いっそ全て流されてしまえば楽だったのに。

橋はそう思った。

最初から動物だけを渡していれば崩れることは無かったのだ。

橋の後悔は反省へと変わり、また礎の上に石を並べ始めた。

以前よりもずっと丈夫になった橋が出来上がった。

動物は喜んだ。

橋も動物が濡れないですむから安心した。

また話ができると思うと嬉しかった。

しかし、橋が元通りになると今度はいっそう多くの人々が利用するようになった。

丈夫な橋はたくさんの人々を渡しても崩れることはなかった。

だから人々は橋の上で争い、渡る時の仮面を持つようになった。

叫び声にかき消され、動物の声は橋の耳に届かなくなった。

使命と希望の狭間で心が小さくなった。

橋はもう耐えられなかった。

今度は自分の力で、人々を川へ叩き落とすつもりだった。

だが橋にはできなかった。

悔しさで暴れた時、たまたま橋を渡っていた動物が川に落ちた。

橋は叫んだ。

だが人々は喧騒の中で小さな動物が居なくなった事に気付かなかった。

自分の手のひらの中だった。

橋は以前よりも酷く崩れた。

礎さえも川底に僅か残るだけとなり、何も見えなかった。

人々は「もう二度と橋は出来ないだろう。」と言った。

礎だけになった橋はどうして崩れてしまうのか考えた。

原因は橋の材料でも組み方でもない。

ただ橋として、心を持ち続けるだけでよかったのだ。

長いようで短い時間。

橋はひとり、再び動物が信頼して渡ってくれる時を待つ。

三度目の正直に答えるために。

もう橋は崩れない。

川には架からないから。

こころでもいいよね。


動物の目のように赤い夕焼け空だった。

SNSについて思うこと。

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友人からTwitterへの参加を勧められたことに対して、落ち着いて俺の思うことを書いてみた。
気軽に人と繋がれたり、連絡をとり続けられる良いツールだと言う。もっと色んな人間に関わって欲しいそうだ。
誰でも気軽に友達になることで本当に大切な人とそうでない人の違いが曖昧になると懸念する俺に対して「そうやって人のことをランク付けみたいにして関わってるの?」と返した友人に対する俺の返答。

例えば自分が学校に行っていない(行くことの出来ない)人間は周囲から「学校へ行っている。」という事実を突き付けられるだけでも、
「自分だけが当たり前のことを出来ていないんだ。」という劣等感を持ち、苦しい思いをして夜も寝られないし、
自己嫌悪に陥って気が滅入る。精神病の悪循環だね。それは交友関係でも同じだよ。

一番苦しい時や助けて欲しい時に、「友達だ。」と言い張る人間は自分抜きの集まりで飲み会をしていたり友達とUSJに行ったりしている。
それを知ってしまったが故に、更に苦しい思いをしている人間に対して「単に羨ましいだけでしょ?」と言ったり口に出さなくともそう思える人間と接するには、自己防衛のために付き合う距離を調整しなくてはいけない。
それをランク付けだと呼ぶのならそうなんだろう。でもSNSで繋がっているだけの友達に自分が元気かどうかだなんて分かるはずもないよね。
元気な時には聞けた話も悪循環に陥ると病を加速させるだけになってしまう。だから自分で距離をとる。
何百人もいる「友達」という名の誰かが楽しい思いをしていることを見たところで救われる人間なんているのかな。

確かにSNSの輪に入っていれば連絡がとりやすいというメリットもある。
でも日々の自慢合戦が行われてる場で「助けてください。」と言えない人間がいることも知るべきだと思うよ。
例え日常の会話の中でも自分の惨めさを痛感して自殺衝動に駆られる人間だっている。
SNSで繋がっている限りは「つらくなるので見せ付けないで下さい。」とも言えないよね。「見たくないならやめろ。」「嫌なら参加しなくていい。」が世の中の正論だもの。
不安や劣等感を持つ人間は、一対一の会話だからこそ話せることや聞けることの方が多い。
孤独な心にとって、相手が「自分を見て自分と話してくれている。」と思うだけでも救われるから。

「したいのにできないこと」があるのは人間なら誰しも当たり前のはずなのに、「世の中の9割の人間は出来ること」が出来ないだけで残りの1割の人間が社会からの脱落者として劣等感を持たされてしまう構造が恐ろしいと思うよ。
それはその1割が弱かったり甘いのでは無く、たまたま運の悪いつまづきを何度か繰り返したが故に、這いあがれない孤独な環境に落ちてしまったんだ。
どんなに世の中を変えようと思っていても9割側の人間は1割が自分と同じ土俵に立ってからでないと何もしない。
自分が輪の中に居る間は仲間ハズレにされないことを知っているから、「人助けをしたい。」と仲間達には話していても自分から1割と同じ立場に行って考えようとはしないんだ。

「障害者・不登校・ひきこもり・病気・・・」これらを武器に世の中へ出られる人間は数少ない。
どんなに9割側の世界で立ち直っているように見える人間でも、心の深い部分には1割にさせられていた頃の自分が残っている。俺ですらそうだもの。
でも同じツアーでカンボジアへ行って学び、同じものを見てきたはずの人間が、マイノリティに対してマジョリティの考え方を「当たり前だ。」という言い方でぶつけてきたのはすごく恐いなと思ったよ。

 

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